No.6 初等普通教育の根本とは?

重松鷹泰の著書「初等教育原理」において,氏は次のことを指摘している。

 

初等普通教育が人格形成の基礎をかためるものであることは,すべての人に認められている。ところで,その内容については,大きく二つの見解が対立している。

 

と述べている。「大きく二つ」についてみていく。

 

1.社会人として生きていくための生活技術(常識や作法・事物の操作方法)などを修

  得すること,さらに将来の発展のために必要な(そういう見地から精選された)基

  本的な知識を習得することが,基礎能力啓培の内容である,とするものである。

 

2.他の人びとと協力して生きていこうとする態度を洗練して行くこと,与えられた知

  識を受け入れるだけでなく,否それよりは,自分で追究して知識を形成して行く力

  を伸ばすこと,その両者の根底にある考える力,追究する力を育成することこそ,

  基礎能力の啓培である,という考え方である。

 

あなたはどちらの立場に立つでしょうか。

 

重松先生は,2.の立場です。

初等普通教育の根本は,追究心の育成,思考力の啓培にある

と述べています。

 

現在の一般的なとらえ方は,前者でしょう。

テストの点数などの数値的なものに”学力”の目が向けられ,

本当に付けなければならない力が見落とされていると感じます。

 

また,教師だけがこのような認識を転換させただけでは何も変わりません。

入試制度の見直しを始め,家庭や地域社会の”学力”のとらえ方を変えていく必要があります。

 

重松鷹泰(1971)『初等教育原理』,国土社.

 

No.5 教育するという行為の責任の重さ

「日本(のスポーツ界)には,一生懸命頑張る文化はあるけれど,選手が自ら考えて行動する文化がなさすぎる」

 

このように指摘するのは,大学教授の守屋志保さんです。

現在Jリーグ常任理事の佐伯夕利子さんが著した「教えないスキル ビジャレアルに学ぶ7つの人材育成術」の一節にこのような記述がありました。

そして,佐伯さんは日本とスペインの子供を比較して,次のように述べています。

 

 例えば,ロッカールームで問いを投げると,日本の子どもで自分から発言するのはすごく少数です。教室では先生から質問されて,恐る恐る挙手し,名前を呼ばれて初めて発言権を与えられる文化だからでしょうか。

 スペインの教育現場は,先生が問いを投げ終わる前に「それはね,こうだと思う」とみんな一斉に答えを言い始めます。間違っていたらどうしようと逡巡する子はいません。先生は笑顔で「ちょっと待って」と子どもたちを落ち着かせてから,「じゃあ,ルイス君」などと当てます。コミュニケーションのありようがまったく違います。

 

 このような違いを生みだしているのは,教育の在り方の違いだといってもよいと考えます。

 現場にいると,「学力向上」「テストの点数」「この領域の知識が・・・」という一側面の話題ばかり耳にします。

 しかし,教育の目的は,「人格の完成」を目指すことです。(教育基本法第一条)どのような人に育ってほしいのかを考え,教育にあたる必要があると考えます。

教育の在り方を変えていくチャンスは”今”だと思っています。

”今”変わらなければ,今後も変わっていきません。

 

佐伯夕利子(2021)『教えないスキル ビジャレアルに学ぶ7つの人材育成術』,小学  

  館新書.

 

No.4 子どもの行動の背景を探る

 私が学生時代に手元に置き,特に障がいのあるといわれる子供と関わるときに欠かさず読んでいた書籍の紹介です。「障碍児心理学ものがたり 小さな秩序系の記録Ⅰ(著者:中野尚彦)」という本です。著者の中野先生は一人ひとりの子供について,具体的に語ることのできる先生です。

この本の中から,私の好きなエピソードを一つ抜粋します。

 

 水遊びが好きな子がいて盛んに水遊びをする。毎日毎日,ホースで教室へ水をばらまいたりする。どうしていいか分からない。たまにある時,水場でコップにダーッと水を入れて,入れては捨て,入れては捨て,くり返し長い間やっていた。

彼は必ず水道栓をいっぱいにひねって出す。せめて少し出すようにしようなんて言っても駄目で,目いっぱいひねって入れて,捨てる。

 

みなさんは,どうされますか?

続きには,

 

彼の横に行って一緒にそれのまねをしてみた。

 

すると,

 

 その時きこえた。プツプツプツと泡の音が聞こえた。サイダーみたいな泡の音が消え消えに聞こえる。でもサイダーではない水道水だから瞬間のうちに消えてしまう。だから捨てなきゃいけない。栓を全開した勢いある水だからこそ泡が出る。分かった。これを聞いていたんだ,これをやっていたんだと思った。そして自分も一緒にやって「わー,きれいな音だね」と言った。そうしたら普段ほんとに視線を合わすことのない子どもが私の顔を見てくれた。

 

このエピソードの続きに,このようなことが語られています。

 

 こととしてはそれだけであるが,そのときに発見したことが今の私の子ども理解の出発点,ある一つの原型的なイメージになっている。子どものことを分かるというのは,こういうことなんだなと一瞬思った。子どもと過ごす中ではっとさせられるという事柄に出会うということ,それが自分の見方とか枠組みというものを大きく崩していくということがある。

 

 これは,当事者同士の話かもしれませんが,このようなエピソードを丹念に集めてみれば,そこに子どもたちの世界への入り口があるのだと思います。そして,障がいのあるなしに関わらず,目の前の子どもとどのように係わるか,そして,その係わりをドラマティックに語ることのできる人になりたいものです。

 

No.3 今の教育観のまま?


アメリカの哲学者,ジョン・デューイは以下のような言葉を残しています。

 

“If we teach today’s students as we taught yesterday’s, we rob them of tomorrow.”

 

この言葉を訳すと次のようになるようです。

 

「もし私たちが生徒に昨日と同じように今日も教えるならば、私たちは子供達の未来を奪っているのです。」

 

自分が子どもの頃に受けた授業は,これからの子どもたちにとっては過去のものです。過去の遺産を伝えることに意味はないとまでは言いませんが,本当に必要なことでしょうか。

また,今目の前にいる子どもたちは,昨日と同じ子どもたちではありません。

常に未来を生きる子どもたちに,私たちはどのようなことができるのでしょうか。

No.2 子どもをどうみるか

 私は小学校の教員をしております。

(現在は教職大学院1年次で学びを深めているところです。)

 

 私が日々大事にしていることは,以下の考えです。

富山市立堀川小学校が出版している「授業の研究」のはしがきからの引用です。

 

“ひとりひとりの子どもの考えには,それぞれに根拠がある。どんなつまらない発言の中にも,その子どもの過去の学習経験や生活経験が織り込まれているのであって,どの子もどの子も,それぞれに,その子なりに独自な考え方の背景を背負って,個性的に問題に対決しているのである。学習指導は,まず,このような,子どもの考え方の特質を認め,その言い分をすなおにききいれることからはじめなければならない。”

 

 授業において,教師が求めている答えと”的外れ”なことを言われると,その発言をすぐに切ったり雑に扱ったりする場面を目にします。

 しかし,その子どもは”そう発言せざるを得なかった”状況なのであり,”何がそうさせているのか”ということを考えない限り,本当の意味での教育にはつながらないのではないかと考えています。

 

1959年に出版された古い本ではありますが,現代に必要な書籍といえるでしょう。

重松鷹泰指導・富山市立堀川小学校(1959)『授業の研究-子どもの思考を育てるために-』,明治図書

No.1 ブログ開設しました。

    ブログを始めてみました!

 

多くの関心事は教育関係になるかと思います。

ただ,それだけでなく趣味にまつわることも記事にできたらと思います。

「私」という「人間」を知って頂ければありがたいです。

 

これを始めるきっかけは,自分自身の勉強の備忘録とでもいいましょうか。

それを読んでくださるみなさんと共有できればと思った次第です。

 

記事に対するご意見やご感想など頂戴出来たらうれしいです。

 

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

                                    2022.12.19(Mon)